「長田タンク筋」の物語を語る事は、この店の創業者である私自身の物語を語ることになります。少しばかり長い話にはなりますが、お時間のある方、ご興味があれば是非ご一読下されば幸いです。
1994年の夏、前期で東京の大学の単位を取り終え、就職も決まり、後は3月の卒業式を待つばかりとなった私は、神戸の実家に帰り、
靴職人である親の仕事の手伝いをしていました。年が明けてまだ寒い1995年1月16日私は深夜に及ぶ
靴の裁断仕事の手伝いを終え、晩飯と風呂を済ませて、一時的に帰ってきていた故の居候扱いで、使っていない倉庫化した空き部屋を寝床にして眠りにつきました。
翌17日未明の午前5時46分、ゴゴゴ・・・ドカーンという轟音とともに就寝中の私は宙に浮き、その後ジェットコースターに乗せられたような感覚の後、床に押し付けられ、気がつけば、私は毛布に
くるまったまま、真っ白な土煙にまみれ、大量の屋根瓦と
土砂と家具の中に自分自身が埋まっている事に気がつきました。見えるはずのない空を頭上に感じながら、私はワケがわからぬまま、瓦と土埃の中から抜け出し、おそらく、家族の部屋があったであろう方向に這いつくばって行きました。するとそこにはガタガタ震えている母親(オカン)がいました。
「なんやようわからんけど、とにかくここから逃げんぞ!」柱にしがみつくオカンを引き剥がしながら、父と弟の生存を確認すると、家族は着の身着のまま
、足の踏み場もわからぬまま、どちらが上とも下ともわからなくなった家からなんとか這い出しました。
外に出た時、そこには、信じられない恐ろしい光景が拡がっていました。目の前の町は、自分の知っている街ではなく、まるで、戦争で空爆を受けた
かのような無残に破壊された街がありました。
私は某国からついにミサイルが発射されたのではと頭によぎりました。街頭の明かりも点いていないない暗闇の中、やっと這い出し、顔面蒼白になった人達がそれこそ着の身着のまま
、埃をかぶったまま
、右往左往する姿がありました。
後にラジオの放送を聞くまで、これが地震であると理解する事はできていませんでした。その凄まじさは、まさに天地がひっくり返った衝撃であり、かつて経験したことのないものでした。後にあれは横揺れだったとか縦揺れだったとか言う人をテレビで見ることになったが、私の町のそれは、そんな甘いものではなく、爆弾を落とされたという方がしっくりくるものでした。
私の目の前では、殆どの家が倒壊し、そこらじゅうから助けを求める声が聞こえ、血だらけで座り込む人や、土ぼこりで真っ白になって立てない老人や、泣き喚く女性で騒然となっているのでした。
殆どの人がとにかく寝ていたところをそのまま飛び出してきただけのために、着の身着のまま、パジャマ姿やステテコ姿のまま、靴さえ履かずに瓦礫の中を、青い顔をして右往左往するだけでした。そして僅か、数十メートル先では、火事が始まり、それはやがて、見た事もないような
火柱を上げながら、次第に大火になって全てを燃やし尽くし初めていいきました。
頭の整理は置いておいて、私と父親と弟は、とにかく、人命第一という事でそこらじゅうに埋もれている人々を引きずりだし、ガレキを撤去し、引火しそうなものをどける作業を無我夢中ではじめました。
私は屋根のなくなった家の2階だったところにのぼり、挟まって埋もれている人を引きずり出しました。腰が抜けて立てなくなったおばあちゃんを背負い、安全なところまで運びました。あかなくなったドアを金棒を突っ込んで、こじ開けたり、屋根の上までよじ登ったりしてとにかく助けを求める人を救助しました。
やがて、火の手が勢いを止められなく頃、空が白み始め、
その恐ろしい地震の傷跡の全貌が、ハッキリ映し出されてきました。気がつくと私は、1月の真冬のさなか上半身Tシャツ一枚、パンツ一丁で裸足という姿でいる事に気付きました。
足の裏はガラス片やガレキを踏みまくったせいで、血だらけで、太腿には、刻印を押したような鉄金具の焼印のような痕、皮はめくれぶら下がってついてました。目の前の状況の凄さとアドレナリンのせいで、痛みというものは殆ど感じませんでした。猛烈な痛みが襲ってきたのは夜が明けだして、ようやく心が落ち着き始めてからでした。私は慌てて、腰に巻くものと靴の変わりになるものを探しだして身につけました。
その後、
埋まっていた人がドンドン引きずり出されていく中、怪我人達を病院に連れて行かなくてはならない状況がでていました。
家の軒先に止めてあった親父自慢のクラウンワゴンは、家の屋根と屋根瓦をそのままかぶり、大破しておりました。フロントガラスは全て破れ、天井はガレキに埋もれ、割れたサンルーフの中から進入したガラス片や、コンクリートやら瓦で
、シートや床の上は埋め尽くされておりました。愛車のカギは、幸いにもスグに見つかり、
外装は無残ながらも、流石は「いつかはクラウン」といわれた名車、エンジンは、無傷で無事かける事が出来ました。
エンジンをかけると同時に、ラジオのニュースのアナウンサーは
、私の目の前で繰り広げられた凄惨な現場とは、あまりにもかけ離れた、信じられないくらい落ち着いたテンションで
淡々とこう語っていました。
「先ほど大阪
の全域で比較的強い地震があり、●●市で、老人が落下物に当たり頭を切るケガをして
いると消防からの発表がありました・・・」
私はそこで始めてこの目の前の大惨事が、戦争や大怪獣の出現ではなく地震なのだと理解できるようになりました。
しかし、その落ち着き払ったアナウンサーの声と、目の前でパニックになっている人達のそれとは、あまりにもかけ離れた違和感
に愕然としました。
間違いなく、
このアナウンサーは神戸がこんな大惨事になっていることを全然気付いていない・・・
一体
何がどうなっているのか。
少なくとも大阪や東京が震源地ではないなら、どこが震源地なのか。神戸は地震が来ない街と教えられ続けて育った私はまさか自分が震源地のすぐそばにいるとは思いもしませんでした。これだけ見事に破壊された家や街を前にしても、思い込みというのか決め付けられた固定観念は、恐ろしくまとわりつくもので、私は、自分が地震激震地のど真ん中いるという事実を、全く信じ
ることはできませんでした。
ここがこんな状況なら、今頃よその街は壊滅しているにちがいないとさえ思いました。それは「神戸には地震が来ない」という俗な話を信じ込んでいたためでした。
軒先に止めていた父のボコボコのワゴン車はエンジンはかかり、ラジオは聞けても、車内はガレキに埋まっており、とても人を乗せて運転できる状況ではありませんでした。そこで、私は
自分が所有する大切な愛車を取り出そうと、5丁離れた、駐車場ビルまで歩いて向かいました。
行けども行けども、どこを歩いているのかわからないくらい、道は瓦礫で覆われ、町は、戦場のように変わり果てていました。変わり果てたわが街を横目に、私は駐車場ビル
の場所まで走りました。奇しくもその道は、私が小学校に行くのに通学した道でありました。この道を友達と通りながら、ノストラダムスの大予言は当たるのか当たらないのかを喧々諤々言いあった事を思い出しました。1999年まで少し早かったが、その予言は
本当に当たったのかもしれないと心から思いました。
私が車を停めていた駐車場ビルは、途中の階から約15度傾き、完全倒壊寸前でした。非常に危険ではありましたが、
私は無人のビルに無我夢中で突入し、3Fに停めていた自分の愛車
、フルチューンフルエアロされたホンダプレリュードを
、割れて傾いたスロープの床や、飴のように曲がって斜交いになった鉄骨を避けながら、なんとか車を引きずり出しました。
今思えば、なんという危険な行為だったか・・・もう一度、余震が起これば、完全に倒壊していたかもしれないくらい危険な行為でした。思えば、私以外その駐車場に立ち入っているものはいませんでした。幸いな事に私の車は、バンパーが外れた
のと瓦礫で泥を被っているくらいで無事でした。私は応急措置でバンパーをなおし、車をビルから出すと、怪我人がいる所に戻りました。その後
、怪我人達を数名乗せ、須磨の病院まで運ぶ作業をしました。
この地獄絵のような惨劇とフルエアロに着飾った車のコントラストは馬鹿馬鹿しくもありました。余談ながら次はこういう時のために4WD買おうと下らないこと思ったことを今でも記憶しています。それ以来私の愛車は殆どがジープ系の四輪駆動や働く車となりました。
怪我人を乗せて愛車を走らせる病院までの道のりの間、国道二号線のような大きな道路でさえ、信号という信号は全て消え、道路交通法も
何もない、無法地帯状態の道と化していました。
マフラーが外れて、爆音だったのにもかかわらず、警察車両の一台も私を止める事は、ありませんでした。通勤時間であろう時間帯にもかかわらず、死の町になったのかというほど動いている車は、まばらでした。しかし、須磨方面は自分らがいた場所ほど被害はなく、停電になっている以外は、整然としていたように思いました。
病院に着くと、そこは既に怪我人でいっぱいで、骨が折れているくらいでは順番を後回しにされるほどの
患者で溢れ始めておりました。その後更におびただしい数の患者が押しかける事は確実でした。
病院往復のさなか、カーステレオから流れるラジオニュースはその頃初めて神戸に大地震が来たかもしれない事を伝え始め
てしまいた。アナウンサー
のテンションは、ようやく現場レベルと同じくらいまで上がっていました。
私が車をだし、病院を行き来する頃になると隣の町であった筈の火は、家の前まで近づいて来ていました。幸い道を挟んでいたためか、野田町4丁目は火災の被害を受けずにすみましたが、目の前の鷹取市場は業火によって焼き尽くされていきました。泣けど叫べど消防は来ず、地震のせいで水も出ない状況にあって、私たちはただ燃える家々を前に、指をくわえて見ているしかありませんでした。出来ることといえば、引火しそうなものを火が来る前にどかせる事と埋もれている生存者を探す事だけでした。結局、鷹取市場まで拡がった火はそのまま一日中町を
じっくり燃やしながら、大黒公園前まで全てを燃やしていました。
その間消防車もパトカーも一台も着ませんでした。
ただひたすらに、木とトタンで出来た長屋のような構造の民家と市場全てがビュンビュンと燃やし尽くすのを見ることしか出来ませんでした。
阪神淡路大震災といわれる巨大地震は、私が生まれ育った街を一瞬に破壊し、多くの人々の命と財産を奪っていきました。
私の生まれ育った街、神戸の下町、長田区、特に私の家があった野田北部鷹取地区は、同じ長田区の菅原地区
・御蔵地区や大正筋周辺、新長田駅北側〜千歳小学校付近などと同様、市場を中心に長屋や木造の家屋が細い路地を挟んで密集していた土地で、震災時は家が倒壊しただけでなく、直後に起こった火災でみるみるうちに炎上し、地震で消防署自体が被災した事もあって、何も出来ないまま町ごと焦土と化してしまった最悪の地域でした。
幸い私の家と私の町は、焼けずに倒壊だけですみましたが、車一台が通れる道の向こう側の鷹取市場をはじめとする殆どの
エリアは、見るも無残に焼き尽くされ、ガレキの地平線が見えるほど、それはまるで果てしなく続く焦土の街と変わり果ててしまいました。その様はいつかみた戦時中の神戸大空襲の時のモノクローム写真と
何ら変わることのない、まるで悪夢のような姿であり、これを現実世界と認識するのに時間がかかりました。時々これは夢か現実かと自問自答するほどでした。
まるで漫画や映画の中にいるような気持ちでした。
数秒間の地震とその後の大火事の後、灰燼と帰したこの街で我々家族は途方にくれた日々を過ごさなければなりませんでした。
空には頻繁にヘリが飛ぶようになりました。全てが殆ど終わった頃にやっと自衛隊がやってきて、学校にテントを設営して配給
や給水を始めました。
着のみ着のまま
住む場所を奪われ、避難場所では寝るスペースを確保し、給水車の水汲みに並び、
有志ボランティアの方が用意してくださった炊き出しやオニギリの配給に並び、
用を足すにも数少ない仮設トイレに行列を待つ生活をしいられていました。1月の凍るような寒さの中、崩れた家の中から使えるものを引きずり出し、ラジオ
から流れる情報にしがみつき、人と出会えば、お互いの生存を喜び、今日はどこの誰が死んでたとか、どこの誰は助かったとかの話を聞くような日々であったと記憶しています。
マスコミも大挙押し寄せました。芸能人や有名人も、やってきました。日本中から宗派を超えたお坊さんや、教会の牧師さんが来て、祈りを捧げていきました。
寅さんをはじめ、総理大臣やら、天皇陛下皇后様までがこの長田にこられた事は
今もって現実感のない話です。次から次に日本中から物資が届くようになり、私たちは、本当にありがたく心が震えました。いつかこの礼はどこかで返そう、そう思いました。
長田という町は、神戸の靴産業を支える町で、職人の町でもありました。靴の型をカットする裁断所や靴の部品を貼ったり糊付けしたりする貼工さん、工場に限らずとも、普通の家の中からもオバちゃんがミシンがけの内職をしている家がそこらじゅうにあ
り、そうした靴職人の関係者で支えられた街でした。長田では今でも靴関係者の事を「ゴム屋の人間」といいます。長田の全盛期では、大丸元町神戸店の売上の半分は長田のゴム屋の人間が使っていたと
語られるほど昭和では景気のいい時代もありました。
親父の自慢のクラウンワゴンもそんな時代に買った車だったのです。そしてその景気のおかげで私は東京の私立大学まで行かせてもらえたのでした。
昭和の全盛期は、町中がそうした靴関連の自営業者であふれ、そのバックアップをするように、小さい喫茶店とお好み焼屋が、自営業者達の商談の場として、あるいは休息の場として集う空間として利用されてきており、石を投げればお好み焼屋か喫茶店かというほど、
零細企業の社長や職人さんのためのお店が軒を連ねておりました。
井の中の蛙の私はこれが日本のどこにでもある風景と思い込んで生きてきましたが、それが、我が町の独自性である事に気付かされるのは、大學で
はじめて外界である東京に来てからの事でした。
お好み焼というと大阪や広島を一番に思い浮かべる人がほとんどでありましょうが、実は長田区という町は日本で一番お好み焼店の密集している場所であることは
あまり知られておりません。そんな町で、忙しい靴作り職人一家の長男として育った私にとってお好み焼屋さんとの関わりは、なくてはならない、切っても切れない存在でありました。
当時の多くの街では、お好み焼や焼きそばは夜に食べる酒のあてであったり、駄菓子屋の軒先でオバチャンが焼いているおやつ代わりのものである事があったでしょうが、長田では多くは昼間っから
、場合によってはごはんと一緒に食べる昼飯であり、夜は銭湯帰りにラムネやビールと一緒に食べる立派な夕飯でありました。
私が物心ついた頃からずっと食べてきたお好み焼。特に私の住んでいた鷹取市場にあった「とよだ(山中)」というお好み焼屋は、私が、月に何回通ったかわからないほどよく通ったお店でした。「とよだ」は、我が家からわずか、30mほど先にある小さなお店で、弟の友達のおばあちゃんとお母ちゃんが、交替でやっているお店でした。
焼くための大きな鉄板がドーンと一枚あってそこを囲むようにお客さんが座るスタイルの、長田ではごくスタンダードなストロングスタイルの店で、味も非常に美味しく店の主であるおばちゃんの器量もあってか、いつも近所のオシャベリ好きのおばちゃん連中で満員の人気店でした。
同時に「とよだ(山中)」は、私にとっては、忙しい両親を持つ我が家の第二の食卓ともいうべき常連の店でありました。母親(オカン)
のミシンの仕事が忙しくて手が回らない時は、私は岩倉具視の肖像画のある500円札を持たされ、お好みでも食べておいでといわれたものです。
当時お好み焼は1枚\250〜\350くらいだったでしょうか。
特に土日の給食のないお昼ご飯、ミシン工で忙しかった
母親(オカン)は、私や弟に、冷えたご飯をお皿に入れて持たせ、「お好み焼屋いって焼きめし焼いてもらって食べとき」と、いってお昼をさせる事が多々ありました。
長田の街の独特な風習として、当時、家から冷やご飯をもっていっていわゆる「(ソース)焼きめし」を作ってもらう事は当たり前の光景で
した。この慣習の一つが後に「そばめし」を生んだとも言われています。
こうして、このお好み焼「とよだ」で、近所のよくしゃべるオバちゃん連中の中に混じって、お好み焼や焼き飯を食べた記憶は、今でも私にとって懐かしく切ない思い出であり
私の舌と私の個の好みを形成した文化となりました。
長田のお好み焼は、どちらかというと広島風お好み焼に似ているところがあり、大阪風のように混ぜないお好み焼であります。鉄板の上に丸く薄くクレープ上の生地を引き、その上にカツオやキャベツや具を乗せ、上から更に生地をかけてひっくり返し、薄くクリスピーに仕上げるのが最終形で、大阪のフワトロをよしとするお好み焼とは、別のものであります。いわゆる
「にくてん」や「一銭洋食」といわれるお好み焼の原型であるオールドスタイルであり、
長田では代表的には、ばらソースやブラザーソースなど。ややスパイシーな 地ソースで食べるのが一般的であります。大阪のお好み焼は卵が入るのでマヨネーズが良くあうのですが、長田のお好み焼は基本マヨネーズはご法度という文化であり当時は、店でマヨネーズあるかと聞いたところで、そっけなく「そんなもんないわ」といわれるのがオチでありました。今ではいわゆる豚玉イカ玉という名で混ぜ焼きを併用している店が殆どなので、マヨネーズを置いている店も増えました。ただし、長田風お好み焼をマヨネーズで食べるのは邪道というのは一般的です。
私にとってのお好み焼は、目の前で何百回何千回と焼かれてきたそんな長田のお好み焼がスタンダードでありました。
混ぜ焼きといわれる大阪風のお好み焼は当時、テレビや少し離れた場所のお好み焼店でしか見た事がなく、普通のお好み焼とは違うものであると認識していました。
私にとって大阪風のお好み焼の焼き方がが一般的に知られる、お好み焼の焼き方であるという事は、今日から
地動説をやめて、天動説でいくねといわれる事くらいのとんでもない話でありました。
或る時、東京の大學時代、一人暮らしも板につき、親友といえる友達が出来た頃の事でした。「東京には美味いお好み焼屋が一件もない」と私は散々嘆いていると、
東京出身の友達が、「そんなにいうなら、じゃあ作ってみろ」ということになりました。
私は、「よし、目に物見せてやろうと」いつも一人暮らしで作っているお好み焼き、即ち、勿論何百回何千回と
作る工程を見てきた長田風のお好み焼を仕込み始めました。すると、その作る工程において、友達は
それがお好み焼を作っている作業である事に驚きはじめました。「え
!そうやって作るんだっけ?どうしてキャベツと生地を混ぜないの?」と
不思議そうに聞いてきました。そんな東京の友人に対して、私の方が答えに困惑してしまいました。
「何がおかしいねん」私は全く理解できませんでした。カップの中でグルグル混ぜて作る大阪風のお好み焼を想像していた
友達は、このようなクレープ式のお好み焼作る工程を見るのが初めてであり、私に何故キャベツを生地に入れて混ぜないのかそして、焼けたお好み焼を押さえつけるのかと多くの疑問を私にぶつけてきたのです。私はとにかく出されたものを黙って食えと思いつつ違和感を持ったままお好み焼を完成させました。フライパンでお好み焼をクルクル回転させる私を見て友達が「職人かよ」とゲラゲラ笑っていました。
結局その時の友達は新種のお好み焼を見たといい、私は、私で東京には間違えた情報をもった人が多いのであるというお互いのズレた認識をそれぞれに成立させ納得していたのでした。
私は、その時、非常なカルチャーショックを受けました
。しかしゴチャゴチャいいながらも、出来あがったお好み焼を友人が食べると、彼は一瞬目をぱっと見開いてこういいました。「これ
はこれで、マジで美味いね。理屈ぬきで。いつか絶対店出したほうがいいよ」
お好み焼を作っている最中に、東京人と予想外のお好み焼問答になってしまいましたが、四の五の言ってた友人が最後の最後に食べて「理屈ぬきで本当に美味い」といってくれた事に、私はえもいわれぬ高揚感を覚え、最高の気分になりました。スグにその気になってしまう性格(タチ)の私はそれを半分本気にし、将来の夢として心のメモ帳にしっかりと書き記しました。
数日後、その友人が下北沢で、芸能人もしょっちゅう来店し行列の出来るお好み焼があるのでいこうと言う事になり、行列に並んだ上でトライする事になったのですが、結局、私の作ったお好み焼きの
方が絶対美味いという事で友人ともに納得し帰りました。
芸能人のサインが壁じゅうに張りまくられていましたが、食べた印象は、マズいの一言でした。今でこそ東京にもそこそこ美味しいお好み焼き店がありましが、当時は、この店レベルが最高峰なのでした。これでいけるなら、とよだのおばちゃんの店なら、日本の芸能人どころか、ハリウッドスターでも全員来るわい。と思いました。この時の思い出が私のその後の私の人生に多大な影響を及ぼした事はいうまでもありません。私は
その後、その時、心のメモ帳に書いた事の一部を実現する事となりました。
私のお好み焼のルーツは、長田のお好み焼ですが、私が物心ついたころから世話になった
鷹取市場の「とよだ(山中)」のおばあちゃんのお好み焼屋にも、この震災は容赦なく無情の鉄槌を下していました。
小さな木造の店は、私の家の目先にある鷹取市場ごと完全に倒壊し、その後襲い掛かった火事ですべてが消失してしまいました。
当日1Fで寝てた、店の初代主であるおばあちゃんは、落ちてきた二階の下敷きになり、即死されたのではないかという事を後から聞きました。2階で寝てた、その後2代目となる、おばちゃんとその息子さん(私の弟の同級生)だけが助かりました。哀しい事に、おばあちゃんは、家の下敷きになったまま、引き出される事も無く、大火の中で焼かれてしまったのでした。
いつもゲタをカランコロンと鳴らしながらお好み焼を焼いていたおばあちゃん・・・ガッチリとした体格でいっつも「ああしんど」といいながら、足が痛い腰が痛いという話しかしてなかったおばあちゃん。
人生の最後にこのような結末を迎える事を誰が予想したでしょうか。
復旧のために、町のガレキを片付けたりする中で、私は、子供の頃から通いつめたそのお好み焼屋のおばあちゃんの骨を
、彼女のお孫さんであり、私の弟の同級生でもある豊田君と友にガレキの中から
拾い出していました。
あのお好み焼屋「とよだ」のおばあちゃんの骨をこんな形で拾う事になろうとは・・・想像しなかった現実
がそこにありました。お孫さんである豊田君に対してかける言葉もありませんでした。
震災後、長田の野田北部鷹取地区を襲った大火事は、そんな私の思い出の全てを見事なまでに焼き尽くし
ました。先のお好み焼屋のおばあちゃんをはじめ、パン屋のご主人、市場の人々、多くの尊い命が亡くなり、残ったのは、
木と鉄クズと灰で埋もれる、どす黒いガレキの山ばかりでした。ライフラインも復旧していない街。夜になれば街頭もなく真っ暗な闇夜の殺風景。ただ私は呆然とするしかありませんでした。
震災から数週間たっても、おにぎりやパンなどの配給生活で飢えを凌ぐ日々
は続きました。なんとかこの状況を抜けださねばならないと思いつつも、家を失い仕事もない状況は、街灯すら復旧せず、暗闇に包まれたガレキの街の中の闇夜と同じく、先の見えない不安に包まれていました。
そんな中、ある時、私は、ガレキと化した鷹取商店街の真っ暗な夜の街にポッと一軒の灯りがとも
っている事に気付きました。近づいてみると、それは震災で潰れた鷹取商店街のお肉屋さんがプレハブで始めた
一軒のお好み焼店でした。
プレハブの中、鉄板一枚でカウンターをつくり、お肉屋さんのマスターが奥さんとともに、そこでお好み焼を焼いていました。おにぎりやカップラーメンばかりで過ごしてきた被災者にとってはあまりにも贅沢すぎる食べ物の様な気がしました。
こんなものを食べたらバチがあたるそんな気になりました。
しかし、それを見つけた私達家族は、
この灰色の街で何とかやり直そうとしている鷹取市場の肉屋のおじさんの勇姿に対する門出の祝福の意味を込めても、限りあるお金をはたいてでも、それを食べ
て景気付けしなければならんと思い、どれほどぶりかに、お好み焼を食べる事になりました。
震災前はあれだけ毎週通ったお好み焼なのに、被災後は、目の前の生きる事に集中して、その存在すら忘れて
いたお好み焼。それだけに「お好み焼」という言葉を聞くだけで、心が
ワクワクドキドキ、お好み焼の上で揺れ動くカツオブシの如くに躍り出しました。
注文して焼きあがったお好み焼、ソースを塗り、薬味を振り、コテで円錐に切って、口に運んだ瞬間・・・世の中にこんな幸せがあったかと思うほど、幸福感に包まれました。家族全員が何もいわず、贅沢などしてはならない筈の被災者である事も忘れ、とにかく頷いて食べていました。その時、プレハブ小屋の中で食べた何週間ぶりのお好み焼の味を、私は今でも忘れる事が出来
ません。
そこには我が故郷を象徴する母なる土地の味と復興への希望の勇気と光そのものがあったのです。
家を失い、故郷を失った絶望の中で彷徨う魂が一枚のお好み焼に救われた瞬間でありました。私の頭には一筋の光明が見えました。
その昔、釈迦は6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けましたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないということを理解しはじめました。そこで修行を中断し、責め抜いた自己の身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャラー川に沐浴をします。そこに現れたのが、スジャータでした
。プンナー樹下に坐していた釈迦を見て、樹の神様と思った彼女は喜んでその場に赴いて釈迦に供養します。釈迦はスジャータから与えられた乳がゆを食してネーランジャラー川に沐浴します。心身ともに回復した釈迦は心落ち着かせて近隣の森の大きな菩提樹下に座し、旧暦12月8日に遂に叡智を極め悟りを得て、「仏教」が成道し
ました・・・。というお話。
私にとってのお好み焼は、この時のスジャータの乳がゆでありました。まるで解脱して悟りを開いたお釈迦様のような空に入ったような気持ちが湧いてきました。私如きをお釈迦様に例えるのはおこがましい限りですが、それでも私の中に神様が宿ったような不思議な瞬間でありました。
その後も、仕事のアテや家の事、今後の将来をどうするかを決めていかなくてはならない苦難の日は続きました。結局家族を連れて姫路や神戸の妙法寺の親戚の家に世話にな
ったり、数ヶ月の間、四日市に疎開する事もしました。その後私は京都にうつり、タクシーの運転手になり日銭を稼いだり、大阪でサラリーマンをしたりしましたが、結局、神戸に戻り、神戸で自動車の貿易の仕事をする事にしました。それが地震以降、他港に荷物を取られた神戸港の復興のためにもなると信じたからです。
自動車貿易の仕事は1年間は日雇いアルバイトとして2年間は自分の会社を立ち上げてやりましたが、3年目に某国の通貨危機と悪質な詐欺に同時にあい大金を失ってしまいました。震災以降最大のピンチでした。そのことで私は貿易の世界をやめて、ウインドウズ95が発売された年にIT関連の仕事を始めるにいたりました。
情報処理が大の苦手だった私もマックだけは遊びでよく触っていたので、この頃のインターネットをはじめとする情報革命は、私の人生を一変させました。IT事業は、グングン軌道に乗り始め
商売も神がかり的にうまくいき、今までにないような利益がでるようになってきました。しかし、何かしっくりこなかった。私を生み育ててくれた街、神戸のために長田のために何かしたいという気持ちがメラメラとあるのに何も出来ていない自分がありました。
IT事業の成功のおかげで、震災や独立で失った、莫大な借金を見事完済し、ある程度の自己資金が貯まった頃、私はとある長田を前面に出し全国展開しているお好み焼チェーン店を見つけました。衝撃でした。自分がいつかやろうとしていた
夢であったことを先にやられてしまったというショックは相当なものでした。
「俺は何をモタモタしていたのか」怒りがわいてきました。
そのチェーン店には行列が出来、大盛況でした。その店舗のデザインや展開の仕方は殆ど天才的経営といえるほど感服するものでした。私のショックはどこから来るものであるか・・・私の故郷である長田を、長田の男として、一経営者として、よそから来た天才経営者に
全てもっていかれた嫉妬に近いものがあったの
かもしれません。男としてのプライドも刺激されました。
その時のショックは、まるで、彼女の浮気現場を目撃してしまった男のような衝撃と哀れさであったことを思い出します。ふつふつと湧き上がってくる自分に対する怒り、
「長田は俺のほうが愛しているんや
」「長田のお好み焼は他の誰よりも食ってきたど」「長田のお好み焼を語らせたら俺の右に出る奴はいない」「長田は俺の長田
やがなっ」という傍から見れば滑稽なくらいの狂おしい郷土愛に私は一瞬でレッドゾーンまで振り切っ
ていました。
気がつけばその日のうちに、お好み焼店を開店する計画をしていました。経営や資金では負けるかもしれないが、長田の本当の味を追求する事においては絶対に負けるわけには行かない。そして俺は長田という名において
「長田のお好み焼の味」その部分で負けるわけにはいかないと決断したのです。今思えば、恥ずかしいほど何だったのだろうと思う部分もなくはないですが、それはほんとに純粋な気持ちからくるものでした。「本当の長田の味を全国に伝えるのは俺だ!」と誓いました。
大学時代に店を開こうとお思ったこと、震災後に食べた初めてのお好み焼、そして故郷である長田を愛する心、全ての点と点がここで結ばれ一筋の線となりました。
子供の頃からのお好み焼に対する愛情、東京での体験、震災での経験、経営者としての嫉妬と奮起によって長田タンク筋は生まれ
たといても過言ではありません。
長田の味を全国に発信したい、そして全国から長田にお好み焼を食べに来るような時代が来て欲しいという想いが私の全てです。人間は美味しいものを食べると誰かに教えてあげたくなります。私はまさにそうした純粋な気持ちで長田の味、神戸の味をより発展させつつ伝えたいと思って店を始めました。
店の看板には百折不屈の四字を誓いとして刻みました。どんな事があっても不屈の精神で倒れない、七転び八起きじゃ甘い、百折不屈でいくぞ!と気合を込めました。
長田タンク筋の味を実際に作るための研究を始めました。そのため、私は長田の本町筋にある某有名店のおばあちゃんの指導を仰ぎに行きました。
その店は戦後から続く名門のお好み焼き店でした。おばあちゃんは、焼き方と材料を包み隠さず教えてくれました。また今まで通ってきたお好み焼き店の店主さんのところへ、それぞれ教えを乞いにいきました。自宅で何枚も何十枚もお好み焼きを作っては捨て作っては捨てし、だんだんと、自分のお好み焼きが完成していきした。更に、美味さを突き詰めるため、あえて日本中の有名なお好み焼き店を廻ることにしました。そして毎日のようにお好み焼きというお好み焼きを食べ比べ、データーやメモや感想を書きました。
材料にもこだわりました。タコは明石の漁師さんから生をそのまま仕入れ、牡蠣は岡山や広島の牡蠣の加工場から厳選しました。キャベツは色んな農家を廻り、季節ごとに最大限の甘みが出ているものを選択していきました。肉は兵庫県の牧場や肉の卸売業者を廻り、厳選しました。
私は、単に下町の長田の味を追い求めるだけでなく、店のオリジナリティと新たな長田流というものを生み出そうと考えました。長田の人間なのに、お前の店の味のどこが長田やねんと叱られた事も多々あります。叱られる度に、改良に改良を重ね、長田のお好み焼のマスター達に指導を仰ぎ、あらゆる研究をしてまいりました。そして長田タンク筋の味が作られて参りました。長田タンク筋では、長田のお好み焼では味わえない、新しい長田の味というものも、開発挑戦していきました。それは長田自身を進化させなければ、昭和の長田で終わってしまうと思ったからです。ともかくも、そのことにより、長田の味が一人でも多くの方に知れ渡る事に心血を注いでまいりました。
最初のうち、お店は全くお客様が着ませんでした。名前が某有名店と似ているせいで、間違えて入ってしまったというお客様が多々あるほどでした。
それでも数々の紆余曲折と苦労を経て、店は一気に有名店といえるほど変わっていきました。時期によっては行列もできる程の店に進化しました。
奇しくもB級グルメブームやご当地グルメブームにのって、長田のそばめしやぼっかけは全国区になってまいりました。私もヨソからのイベントのオファーがあれば全て参加するようにしました。恥を忍んで全国放送のテレビやラジオの出演もしました。雑誌の取材は全て受けました。地元の
依頼を受け、長田コナモン祭
からオファーを受けたときはやっと地元から認められた気がしました。大阪の阪神百貨店の一大イベントでは、当時B級グルメグランプリ、連覇チャンピオンであった富士宮焼きそばに並んで、双璧の二位の人気も得ました。ハーバーランドで行われたサントリーのイベントでは長蛇の列で、最後尾が見えないほどの行列を作りました。神戸の長田を売れるイベントには呼ばれる限り全部行きました。
それは利益よりも長田を盛り上げたいという一心でやったものであると自負しています。
そうしているうちに、東京にお店を出店しないかという誰もが知る超大手不動産会社からのオファーがありました。私は二つ返事で承諾しました。私にとっては待望の東京進出でした。遂にこの
時がきたと思いました。場所はお台場。麺をテーマにしたスタジアムでの出店でした。これで本当の長田の味を全国に伝える事が効率よく出来る。そう
確信しました。私は新たに社員を雇い、莫大な費用をかけて研修を行い、皿や調理器具等を揃え、店の内装も済ませました。オープン前のマスコミへのプレオープンでは大盛況で本当に高い評価をもらいました。
これでいける!・・・そう思いオープンした3月11日、私は店長から大盛況の連絡を受けていました。午前中だけですでに目標以上の結果を出し、他店と比べても3本の指に入るベストな売れ行きである報にガッツポーズをしました。しかし、ランチタイムが終わり店が落ち着いてきた午後2時半過ぎの電話の最中のころでした。電話の先の店長が突然「社長、ちよっと、ちょっと待ってください!」と電話口で叫びました。「揺れてます!危ないです!うわぁ!」という叫び声を残し切れてしまいました。
私は板宿のミスタードーナッツの前で、半笑いで携帯電話をもったまま、何がおこったのかわかってませんでした。
暫くして店長から再度電話が鳴りました。「店がメチャクチャの事」「多分地震である事」そしてままた電話が切れました。私は意味が解からないまま呆然としていました。するとラジオから東北関東で大地震が発生という信じがたい情報
が聞こえました。それこそまさかの3.11東日本大震災でした。
3.11はいうまでもなく、東北を中心に未曾有の被害を出しました。使者行方不明者も莫大で、津波により多くの尊い命がここでも犠牲になりました。
幸い、ウチのスタッフをはじめ、電話で話していた店長は勿論、東京のお台場では命を奪われるような事はありませんでした。しかし、強烈にビルが揺さぶられた結果、オープンしたばかりの店は崩壊し、ビルもライフラインなどに亀裂が入った
ため、暫くの間ビルの閉鎖が決定しました。
その後の震災後の風評の影響も鑑み、修復と回収のバランスを考えた結果、長田タンク筋東京お台場店は、オープンから数時間で、撤退を余儀なくされました。私には
投資した膨大な負債が再びドカーンと残ってしまいました。
事実は小説よりも奇なりといいますが、私は2度の震災で多くの財産を奪われました。
しかしあれから数年、長田タンク筋本店はますます元気でやっています。やられた被害も大変ですが、今までの苦労から見れば、これしき、屁のツッパリ
はいらんですよといいたいくらいです。言葉の意味は解からんが、スゴイ自信である事はわかってもらえるはずであります。
震災の後日談も多々ありますが、どんな事にもめげず、タンクは再び息を吹き返して燃えています。店の前には創業当時の四文字が刻まれています。
そう 「百折不屈」です。
燃えよ神戸魂!負けてたまるか長田男!そう思って今も頑張っています。
この場を借りてではございますが、東北や関東で尊い命と財産を失い、多数の被害に遭われた方、津波・原発で故郷やを奪われた方、本当に心からお悔やみ申し上げます。しかし、下を向かず、前を向いてお互い少しづつでもいいから頑張ろうではありませんか。お互いの地元のために毎日出来る何かを考えて少しづつやる事。そうすれば、何かが見えてくると思います。次の世代に渡せる誇らしい故郷を取り戻そうではありませんか。
そして震災に限らず色々な辛い思いをされている方に向けて、私達は心を込めた美味しいお好み焼や鉄板焼きでしか表現できないかもしれませんが、スジャータのようなピュアな気持ちをもって、皆様が再び明日への活力と魂を取り戻せるよう皆様に希望と元気を与え続けて一枚入魂のお好み焼を焼いていきたいと考えております。
長ったらしい話ではございましたが、私が長田タンク筋を始めそして続けていく理由が少しは理解して頂けたのではないでしょうか。とはいえ、いくら話が長くても美味くなければ意味がありません。この壮大な話に負けない味へのコダワリは永遠に尽くしていきたいと考えております。
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